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釈迦と弥陀 [『阿弥陀経』精読(その28)]

(9)釈迦と弥陀

 ここであらためて釈迦と弥陀の関係について思いを潜めてみましょう。親鸞はしばしば釈迦・弥陀二尊の慈悲と言います。『高僧和讃』には「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」と詠い、『正像末和讃』では「釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」とあります。浄土教には釈迦・弥陀二尊が登場してこなければならないということ、ここにこの教えの特質があります。釈迦が釈迦自身のさとりの内容を説くのではありません、また弥陀が弥陀自身の本願を説くのでもなく、釈迦が弥陀の本願を説くという構造になっているところにこの教えの勘どころがあります。
 これは一つに、究極の真理(仏教ではダルマ、法と言いますが、浄土教においては本願です)はむこうからやってくることをあらわしています。釈迦は自身でダルマをつかんだのではなく、むこうからやってきたダルマにつかまれたということです。そして釈迦はその事実を人々に伝えた、というより、否も応もなく伝えざるを得なかったのに違いありません(初転法輪)。そこから二つ目に、ダルマは釈迦のことばを通してわれらのもとにやってくるということを意味しています。ダルマは直接われらのもとにやってきてわれらをつかむのではありません、釈迦を通じて、釈迦のことばのなかからやってきて、われらはそれにつかまれるのです。
 さらに三つ目に、にもかかわらず、釈迦のことばを聞くこと(釈迦のことばが届くこと、それは経典を読むことです)と、ダルマそのものを聞くこと(本願の声が届くこと)は別であると言わなければなりません。釈迦のことばを聞いたからといって、ダルマそのものを聞いたことにはならないということです。「聞く」ということについては、しばしば「信巻」の次のことばが引きあいに出されます、「しかるに経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と。「仏願の生起本末」を「聞く」というのは、釈迦が弥陀の本願の生起本末を語るのを聞くということで、それは本願の声そのものを聞くこととは別のことです。
 釈迦のことばのなかから、そのことばを通して本願の声が聞こえてくること、これが本願を信ずるということです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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