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『阿弥陀経』精読(その29) ブログトップ

本文1 [『阿弥陀経』精読(その29)]

             第4回 難信の法

(1)本文1

 六方段のあと、さらに諸仏の護念について説かれます。

 舎利弗、なんぢが意(こころ)においていかん。なんがゆゑぞ名づけて一切諸仏に護念せらるる経とするや。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名(阿弥陀仏の名)および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語(ことば)および諸仏の所説を信受すべし。舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに(将来)発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしは今生れ、もしはまさに生れん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。

 これまでのところでは「この不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経」というように言われてきました。つまり護念されるのは経であるとされてきたのですが、ここにきて、「この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて」と言われ、護念されるのは弥陀の名とこの経の名を聞くものとなっています。一切諸仏はこの釈迦の説く「経」を護念するだけではなく、弥陀の名を聞き、経の名を聞くもろもろの「善男子・善女人」を護念するというのです。そしてそのものたちは「みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん」と言われます。ただちに阿耨多羅三藐三菩提すなわち仏のさとりを得るのではありません、それを得ることから退転しないようになるというのです。いわゆる正定聚不退の位を得るということです。
 親鸞は「信巻」において現生十益の一つに「諸仏護念」を上げていますが、ここで説かれているのはそのことです。

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