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諸仏護念 [『阿弥陀経』精読(その30)]

(2)諸仏護念

 親鸞は「信巻」において第18願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」を注釈し、その「一念」とは信心に二心のないことであるとした上で、そのような「金剛の真心を獲得(ぎゃくとく)すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益(やく)を獲。なにものをか十とする。一つには冥衆護持の益、云々」とあるのですが、その四つ目に諸仏護念の益が上げられるのです。「その名号を聞き、信心歓喜する」行者を諸仏が影の寄り添うように護念してくださるということです。親鸞はここではっきりと「現生十益」として、将来の利益ではなく、「いまここ」で得られる利益であることを確認していますが、この経に「この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて」と言われているのも「いまここ」であることは明らかです。
 さてでは「諸仏護念」とは具体的にどういうことでしょう。「護念」という文字から受ける印象では、さまざまな災難に遭わないよう護ってもらえるという意味に受けとってしまいますが、それを言っているのでないことは、「みな一切諸仏のためにともに護念せられて」にすぐつづいて、「みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん」とあることから分かります。阿耨多羅三藐三菩提とは仏のさとりのことで、それを得るのは先のことですが、そこから退転しない、つまりかならず仏のさとりを得られるように護ってもらえるということです。親鸞は現生十益の最後に「正定聚に入る益」を上げていますが、正定聚とはかならず仏のさとりを得られる位のことです。したがって諸仏護念の益とは入正定聚の益と別ではありません。
 本願を信じ念仏を申す身になっても、さまざまな災難に遭うことはあります。天災にも人災にも遭い、病魔に苦しむこともあることでしょう。しかし、どんな逆境におかれても、もう正定聚の位から退転することはないということです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらったのですから、大船に乗ったような安心(あんじん、どんな状況にあってもそれに左右されない安心)を得られたということです。

タグ:親鸞を読む
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