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『阿弥陀経』精読(その31) ブログトップ

「すでに」「いま」「まさに」 [『阿弥陀経』精読(その31)]

(3)「すでに」「いま」「まさに」

 阿弥陀仏の名号を聞いたものは、そのとき諸仏に護念されるという利益を得られるのですから、「このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語および諸仏の所説を信受すべし」と釈迦は勧めます。くどいようですが、阿弥陀仏の名号を聞くことと、「わが語および諸仏の所説」を聞くことは別であることをもう一度確認しておきたいと思います。釈迦がどれほど力を込めて「わが語および諸仏の所説を信受すべし」と勧めても、「わが語および諸仏の所説」を聞くことは阿弥陀仏の名号を聞くことの代わりにはなりません。「わが語および諸仏の所説」を聞くことを通じて、そのなかから阿弥陀仏の名号を聞くこと、これが本願名号に遇うということです。
 さて釈迦は「わが語および諸仏の所説を信受すべし」と勧めたあと、「舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん」と言います。ここで注目すべきは、「すでに」(過去)と「いま」(現在)と「まさに」(未来)を区別し、そのそれぞれについて、「すでに」発願したものは「すでに」かの国土に生まれ、「いま」発願したものは「いま」生まれ、「まさに」発願するものは「まさに」生まれるとされていることです。
 これは「阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんもの」は、「そのとき」生まれるということですが、しかし発願した「そのとき」生まれるとはどういうことでしょう。
 前に、阿弥陀仏の名号に遇うことができ、その名号を執持する人は「命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顚倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」とありました。それと整合させようとしますと、「いま」発願した人は、その人の命が終わるそのときに往生するのであり、もっとずっと先のことではないと解釈することになるでしょう。しかし「かの国土に生れ」るというのは「阿耨多羅三藐三菩提を〈退転せざる〉ことを得」ることに他ならないのですから、「いま」発願したものは、文字通り「いま」生まれると考えていいのではないでしょうか。第18願成就文の「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん(願生彼国、即得往生、住不退転)」の「すなはち(即)」は「そのとき」であるように。

タグ:親鸞を読む
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