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即得往生 [『阿弥陀経』精読(その32)]

(4)即得往生

 しかし「いま」発願すれば、文字通り「いま」生まれるというのはあまりに常識から外れていると言わざるをえません。通常は、「いま」発願しても、ただちに実現するのではなく、何がしかの時間の後に実現するものです。「いま」何かが願われることで、そこからものごとがスタートして、それが成就すべく手筈が整えられ、そうしてはじめて実現の運びに至るからです。「いま」願ったことが「いま」実現することがあるとすれば、それは「いま」何かを願うよりも前に、それはもうすでに願われており、その願いが成就するようにことが進んでいるとしか考えられません。
 往生を発願するというのは、その場合に当たります。われらが往生を願うとき、実はそれに先立ってわれらの往生が願われているのです。法蔵菩薩の「若不生者、不取正覚(もし生れずば、正覚をとらじ)」という願いがすでにおこされており、だからこそわれらが往生を願うことができるということです。こう言ってもいいでしょう、われらが往生を願うというのは、すでにわれらの往生が願われていることに気づくことに他ならないと。「帰っておいで」という声が聞こえていることに気づいたから(これが「聞其名号」です)、それにこだまするように「帰りたい」と願うのです(これが「願生彼国」です)。
 すでにして「帰っておいで」という願いがあり(本願です)、そのための手筈も整えられているのですから(浄土です)、「帰りたい」と願ったそのとき、ただちに帰ることができるのです。いや、こう言うべきでしょう、「帰りたい」と願ったそのとき、「ああ、もうすでに帰っているではないか」と気づくのです。これが「即得往生」ということですが、さあしかし、浄土に帰りたいと願ったとき、そこに浄土が現在している(この言い回しは曽我量深氏のものです)ということは、そうすんなりとは腹におさまってくれません。この娑婆世界が、そのままで浄土であると言われても、「うーん」と唸らざるをえないところがあります。

タグ:親鸞を読む
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