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サハー [『阿弥陀経』精読(その33)]

(5)サハー

 突然ですが、ある方からこんなメールをいただきました、「往相還相の、戻ってきて衆生を救済するという思想、にもかかわらずの、例えば南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者。本願に遇える人とはどんな人?などと、『お迎え』が自分の中で広がっていきそうもありません」と。ここで「お迎え」と言われているのは、臨終の来迎のことではなく、もうすでにお迎えにあずかっているということで、この娑婆世界に浄土が現在しているという意味です。「南イエメンやシリアの難民」あるいは「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の存在を考えるとき、ここに浄土が開示されているとはとても思えないということでしょう。
 この方は「南イエメンやシリアの難民」の苦をわが苦と感じ、「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の苦をわが身に感じています。多くの人は、そのような人たちのことを知ると「かわいそう」とは思っても、所詮わが身とは関係のない存在だと切り離して考えるのに対して、この方は自分とのつながりの中で彼らのことを思っています。どれほど遠く隔たった世界のことであっても、自分と無縁のこととは思えない。そしてそこからこの世界をサハー(娑婆)、すなわち苦しみを堪え忍ぶところと感じています。だからこそ、どうしてこのサハーに浄土が現在していると言えるのかという疑念が生じることになるのです。
 この世を娑婆世界と感じるのは一つの「気づき」であるということ、ここに思いを潜めたい。
 「知る」と「気づく」の違いについてあらためて確認しておきましょう。「知る」とは、われらが何かについて判定を下すこと、ぼく流の言い方を許していただけるなら、何かを知的にゲットすることです。それに対して「気づく」とは、われらが何かに知的にゲットされることだと言えます。何かがわれらをつかみ取って放さない。で、この世を娑婆世界と感じるのは、われらがこの世が娑婆であると判定を下すことではありません。われらがこの世は苦しみを堪え忍ぶところであるという事実をゲットするのではなく、逆に、その事実がわれらをゲットして放さないのです。「南イエメンやシリアの難民」、「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の苦しみがわれらに迫ってきて、ここは娑婆世界であると頷かざるをえなくなるということです。

タグ:親鸞を読む
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