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光と闇 [『阿弥陀経』精読(その34)]

(6)光と闇

 「かわいそう」とは思うが、自分とは関係のないことと切り離して考えるのと、どれほど遠く隔たったところのことであれ、自分とは無縁のこととは思えないのとの対比にもういちど戻りますと、前者は「その人たちは気の毒だが、自分にだって嫌なことはいろいろおこる、この世には嫌なこともあれば、いいこともあって、禍福はあざなえる縄のごとしである」と思っています。それに対して後者は、世界のあらゆる苦しみがわが苦しみとして迫ってきますから、「この世はまさにサハーであり、闇に閉ざされている」と感じざるをえません。
 さてしかし、この世はまさに闇に閉ざされたサハーであるという「気づき」は如何にして可能か。
 この世は闇に閉ざされていると気づいたとき、その人はすでにして光の存在にも気づいています。いつももち出す譬えで恐縮ですが、神が「光あれ」と言われる前の世界に誰かがいたとして(これは聖書のシナリオに反しますが)、その人にとってそこはどんな世界でしょうか。真っ暗闇に決まっているじゃないか、と言えるのは光を知っているからであり、光の存在を知らなければ、そこが闇であると思うことはありません。そこは光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもなく、なにものでもない世界であるとしか言えません。そこに光がさっとさし込んではじめて、「ああ、ここは闇の世界なのか」と思い至るのです。
 「ああ、ここは闇のサハーだ」という気づきがおこったとき、その人はすでに浄土の光に気づいているはずです。浄土の光の気づきがなければ、この世は光の世界ではないのはもちろん、闇のサハーでもなく、なにものでもない世界でしょう。かくしてサハーの闇の気づきと浄土の光の気づきはコインの表と裏のようにひとつであると言わなければなりません(これが善導の二種深信です)。サハーのただなかに浄土が現在しているというのはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
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