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無明 [『阿弥陀経』精読(その37)]

(9)無明

 釈迦の教えを要領よくまとめたものとして四諦説(したいせつ)がありますが、その第一が「生きることはすべて苦しみである」とする苦諦、次が「その苦しみの元は煩悩である」とする集諦(じったい)です。第三の滅諦と第四の道諦はいまはおきます。で、この集諦の意味することを腹の底から了解できていなかったことが、苦諦についての疑念を生み出していたようです。苦しみの元とされる煩悩はふつう貪欲・瞋恚・愚痴の三毒とされますから、「そうか、貪りや怒りなどが苦しみをおこす元であるということか」と理解してすませていました。それはそれで決して間違いではないのですが、しかしそこにとどまっていますと「生きることは〈すべて〉苦」とされるのが釈然としないままです。
 貪りや怒りが苦しみの元と理解しますと、われらはいつも貪りや怒りのなかにいるわけではありませんから、「生きることは〈すべて〉苦」とはなりません。貪りや怒りから離れているときには、生きることを楽しみ、生きる喜びを味わうこともあるでしょう。そこで、苦しみの元とされる貪りや怒りをおこすそのさらに根源に目を向けなければなりません。それを釈迦は我執ということばで明らかにしてくれました。「わたしへの囚われ」です。われらは「わたし」というものを措定し、何の根拠もなく「わたし」をあらゆるものの第一起点(第一基点)であると思い込んでいます。「わたし」あってのものだねであり、そこからすべてははじまると思い込んでいます。
 釈迦はこれが囚われに他ならないと喝破し、それを無明や我執ということばで表現しました(デカルトやカントもこの「わたし」という第一基点に注目した点では釈迦と同じですが、ただ彼らはそこに人間の栄光=主体性や自由を見たのに対して、釈迦はそこに人間の悲惨=無明や我執を見たという点で際立ったコントラストをなしており、ここに近代ヨーロッパ文明と仏教文化のもっとも根本的な違いがあります)。そして、この「わたしへの囚われ」から貪欲・瞋恚・愚痴の三毒が生まれ、さらにはそこから生きる苦しみのすべてが生じると見たのです。

タグ:親鸞を読む
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