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わたしへの囚われ [『阿弥陀経』精読(その38)]

(10)わたしへの囚われ

 われらは貪欲・瞋恚のなかにいないことはありますが、無明・我執のなかにいないことはありません。そして無明・我執が苦しみの元であるとしますと、「生きることは〈すべて〉苦しみである」ということになります。さてしかしそれはどういうことか。ごく日常的な喜び・楽しみを考えてみましょう。たとえば天気のいい日にドライブして見事な紅葉に出あうことができたようなとき、「ああ、世界は美しい」と喜びに包まれます。そう思って通り過ぎれば喜びに浸るだけで終わりですが、そのときふと、たとえば病床にあってこのような美しさを味わうことのできない人のことがこころをかすめますと、その喜びは喜びのまま同時に苦しみにならないでしょうか。
 病床にあって世にも美しい光景を見ることができない人のことがこころをかすめるのは、「わたしへの囚われ」が頭をよぎったからです。何の根拠もなく「わたし」を第一基点として生きていることにふと気づかされたということです。先のメールに出てきた「南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」も同じです。レヴィナスという哲学者が「顔」という特異なことばで言い表そうとしたのは、そのような「他者」があるとき突然「わたし」の前にヌッと顔を出し、われらが「わたしへの囚われ」のなかにあるという事実を思い知らせるということでしょう。
 そこから翻って考えてみますと、貪欲・瞋恚についても、それらが苦しみの元になるのは、そこに「わたしへの囚われ」が顔を出してくるからであることが了解できます。何かを貪ったり、誰かに怒りを覚えること自体が苦しいわけではありません。貪ったり、怒ったりしているときは、ただ無性に貪り、ひたすら怒っているだけで、それを苦しいと思うことはありません。それが苦しみとなるのは、何かを貪りながら「ああ、また貪り虫が出てきた」と思い、誰かに怒りを覚えながら「ああ、また怒り虫が暴れ出した」と思うときです。そして貪り虫や怒り虫というのは「わたし」という虫に他なりませんから、そのときには「わたしへの囚われ」にうすうす気づいているということです。

タグ:親鸞を読む
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