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サハーのただなかに浄土が [『阿弥陀経』精読(その39)]

(11)サハーのただなかに浄土が

 生きる苦しみのよってきたる元が煩悩であり我執であるということは、苦しみを苦しみと感じたときには、そこに「わたしへの囚われ」があることに多少なりとも気づいているということです。先に、何かを貪ったり、誰かに怒りを覚えること自体が苦しみではなく、それについて煩い悩むこと(これが煩悩です)により苦しみとなると言いましたが、それが苦しみを苦しみと感じることです。そして、ここが勘どころですが、苦しみを苦しみと感じるということは、すでにその正体に気づいていることであり、そのときにはもう苦しみがその出鼻を挫かれています。
 スピノザはそのあたりの消息を次のように述べています、「受動という感情(たとえば苦しみ)は、われわれがそれについて明晰判明な観念を形成する(その正体をつかまえる)や否や、受動であることをやめる」(『エチカ』第5部)と。苦しみの正体である「わたしへの囚われ」は、われらがそれに気づくや否や、「や、見破られたか」とばかりにコソコソ逃げ出すということです。「わたしへの囚われ」がなくなるわけではありません(われらは死ぬまでこれとつきあわなければなりません)、「わたしへの囚われ」があることに気づくだけですが、それで苦しみの出鼻が挫かれるのです。
 さて「わたしへの囚われ」の気づきはどこからもたらされるのでしょう。これが「わたし」から出てくることはありません。「わたしへの囚われ」を「わたし」が気づくということは金輪際ありません。ではどこからやってくるのか。それは弥陀の本願からでしかありません。本願の声がわれらにこう告げてくれるのです、「おまえたちは“わたし”というものに囚われ、そうであるがゆえにサハーの世界に住まざるをえないのだ」と。かくして「わたしへの囚われ」の気づきは、本願に気づくこととひとつであることが明らかになります。そして「わたしへの囚われ」に気づくことが、ここはサハーの世界であると気づくことに他なりませんから、サハーの世界がサハーの世界のままで本願の世界であるということになります。サハーの世界のただなかに浄土が現在しているというのはそういうことです。
 いよいよ最後の流通分です。

 仏、この経を説きたまふこと已(おわ)りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたてまつりて、歓喜し信受して、礼をなして去りにき。

 ここは読むだけにして、『阿弥陀経』精読を閉じたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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