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『観無量寿経』という名前 [『観無量寿経』精読(その1)]

             第1回 王舎城の悲劇

(1)『観無量寿経』という名前

 みなさん、こんにちは。『阿弥陀経』につづいて、こんどは『観無量寿経』を読んでまいりたいと思います。『無量寿経』、『阿弥陀経』とともに浄土三部経として浄土教のなかで重きをなしてきた経典ですが、まずはその名前について考えておきましょう。「無量寿(仏)を観る経典」ということですが、「無量寿」とはアミターユス(amitayus)の漢訳で、アミタ(amita)が無量(mitaが有量で、aはその否定詞)で、アーユス(ayus)が寿(いのち)ですから、無量寿となります。これからは「アミタのいのち」と表記したいと思います。
 で、その「アミタのいのち」を「観る」というのがこの経典の特徴です。『無量寿経』は同じく「アミタのいのち」についての経典ですが、こちらは「アミタのいのち」を「聞く」ことにその本質があります。「アミタのいのち」が名のりを上げるその声を「聞く」こと、これが『無量寿経』のアルファでありオメガです。親鸞はそのことを「仏の名号をもつて経(無量寿経)の体とするなり」と述べています(『教行信証』「教巻」)。名号とは「アミタのいのち」の名のりに他なりませんから、われらから言いますと、「アミタのいのち」の名のりを聞くことにこの経の体(本質)があるということです。
 「アミタのいのち」を「観る」と「聞く」、このコントラストに思いを致したい。
 浄土系の経典に二つの流れがあり、ひとつが「アミタのいのち」を「観る」ことに主眼を置くもの、もうひとつが「アミタのいのち」を「聞く」ことを本質とするものです。もっとも初期の大乗経典に、『般若経典』や『法華経』などとともに、浄土系の経典として『般舟三昧(はんじゅざんまい)経』と『無量寿経』がありますが、前者が「観る」こと、後者が「聞く」ことに軸足をおいています。「般舟三昧」とは「諸仏現前三昧」あるいは「仏立三昧」ともよばれ、7日あるいは90日の間、精神を統一して正しい行を修すれば、十方の諸仏を現前に観ることができるとされます。『般舟三昧経』は、とりわけ西方の阿弥陀仏を「観る」ことを説きますが、その流れを汲むものがこの『観無量寿経』です。一方『無量寿経』は、先に述べましたように、阿弥陀仏の名のりの声を「聞く」ことに救いがあると説きます。

タグ:親鸞を読む
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