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反響の大きかった経典 [『観無量寿経』精読(その2)]

(2)反響の大きかった経典

 『般舟三昧経』や『無量寿経』はごく初期の大乗経典ですが(大乗仏教の成立とともに古い)、『観無量寿経』はかなり遅れて成立します(康僧鎧訳の『無量寿経』の記述が下敷きになっている箇所があることなどからそう推測できます)。畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)という西域出身の僧により訳されたのが劉宋(南北朝時代の南朝最初の王朝)の元嘉年代(425年~453年)だと記されていますが、経そのものがいつどこで成立したのかについてはよく分かっていません(一説には中国で編纂されたとも言われます)。
 この経典は中国仏教の各方面に広い読者層をもち、中国浄土教の歴史の中でその存在はきわめて大なるものがあったと言わなければなりません。曇鸞・道綽・善導といった浄土教主流においては言うまでもなく、浄影寺・慧遠(じょうようじ・えおん)や嘉祥寺・吉蔵(かじょうじ・きちぞう、三論宗の大成者)、あるいは天台智顗(てんだいちぎ)など当時の代表的な学僧たちはみなこの経典から大きな衝撃を受け、その注釈書を著しています。この経典が大きな反響を得た最大の要因として、その内容が時代の要請にピッタリ合うものであったことは疑いのないところですが、もうひとつの要因として経典の構成がきわめてドラマチックであったことも間違いないことでしょう。
 では、いよいよ経典の本文に入っていきましょう。

 かくのごとく、われ聞きたてまつりき。ひと時、仏、王舎城耆闍崛山(ぎしゃくっせん、マガダ国の都・王舎城の東北郊外に位置する山で、釈迦の教団がここで修行していた霊鷲山‐りょうじゅせん‐のこと)のうちにましまして、大比丘の衆、千二百五十人と倶(とも)なりき。菩薩三万二千ありき。文珠師利法王子(法王である仏の子の意で、最上首の菩薩のこと)を上首とせり。

 大乗経典の形式に則り「如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)」と阿難が語りはじめます。舞台は王舎城の霊鷲山で、そこには多くの大比丘や菩薩たちが座を共にしていたとされますが、この霊鷲山こそ『無量寿経』や『法華経』が説かれたところです。経典はこのようにごく普通にはじまりますが、その後すぐ舞台はマガダ国の宮廷に移るのです。この急展開に経典のドラマ性が現れています。

タグ:親鸞を読む
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