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われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる [『観無量寿経』精読(その5)]

(5)われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる

 さて深宮に幽閉された韋提希は霊鷲山におわす釈迦に救いを求め、かくしてこの経典が説かれる機縁が生まれることになります。

 時に韋提希、幽閉せられをはりて愁憂(しゅうう)憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、「如来世尊、在昔(むかし)の時、つねに阿難に遣はし来らしめて、われを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見(まみ)えしめたまへ」と。この語をなしをはりて悲泣雨涙(ひきゅううるい)して、はるかに仏に向かひて礼したてまつる。いまだ頭(こうべ)を挙げざるあひだに、その時世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没(もつ)して王宮(おうぐ)に出でたまふ。時に韋提希、礼しをはりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。身は紫金色(しこんじき)にして百宝の蓮華に坐したまへり。目連は左に侍り、阿難は右にあり。釈(帝釈天)・梵(梵天)・護世の諸天(四天王、持国天・増長天・広目天・多聞天)、虚空のなかにありて、あまねく天華(てんげ)を雨(あめふ)らしてもつて供養したてまつる。時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞(ようらく、装身具)を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、「世尊、われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる(どんな因縁で提婆達多などと親族なのですか)。

 ここで印象的なのは、思いもかけず釈尊御自身が目の前に現れてくださったのを見た韋提希が、驚きと慶びのあまり「みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣」する場面ですが、しかし、そんな韋提希の口をついて出たのは、「世尊、われ宿、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる」という愚痴でした。ここにはわれらと何も変わらない愚痴の凡夫としての韋提希の姿が遺憾なくたちあらわれています。

タグ:親鸞を読む
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