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世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる [『観無量寿経』精読(その7)]

(7)世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる

 韋提希の愚痴はさらに「世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる」とつづいていました。「あなたはまたどういう因縁で提婆達多などと親戚なのですか、提婆達多に唆されることさえなければ阿闍世も父王殺害などという大それたことに手を出すことはなかったことでしょうに」と言うのです。ここに愚痴いよいよ極まれりといった感がありますが、この愚痴の背景には、われらはものごとの因縁を見通すことができ、それを自在に操ることができるはずではないかという思いが潜んでいます。
 ここで仏教の因縁の教えについて考えておきましょう。
 釈迦はすべてのものごとは因と縁と果の関係においてつながりあっているとし、そうしたつながりから自立してそれだけとして存在するものは何ひとつないと考えました。ぼくらはともすると「われ」というものは他のものから自立してものごとの絶対的起点となると考えます、それが自由ということだと。「われ」があるときあることをしようと思う、それがすべての起点となるということです。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なことばはそのことを表現しています。「われ思う」ことにより世界が新たにはじまるということです。
 しかし釈迦は、「われ」があるときあることをしようと思うことにも因と縁があり、それにより、そのときそのようにしようと思うに至ったのだと言います。そもそも「われ」というものがそれ自体として独立してあるのではなく、その時々のさまざまな因と縁と果のつながりのひとつの結節点にすぎないと見るのです。としますと、誰もものごとの因と縁と果のつながりを見通すことなどできないということになります。つながりを見通すためには、つながりから離脱してそれらを眺望する位置にたたなければなりませんが、それは誰にも許されていないのです。ましてやそれを自在に操るなどということができようはずがありません。
 「世尊、われ宿、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属たる」という韋提希の愚痴は、まさしく因縁の法に対する無明であることが了解できます。

タグ:親鸞を読む
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