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わがために広く憂悩なき処を説きたまへ [『観無量寿経』精読(その8)]

(8)わがために広く憂悩なき処を説きたまへ

 さて韋提希はこんなふうに愚痴を漏らしたのち、釈迦に次のように述べます。

 やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提(えんぶだい、須弥山の南の大陸、インド)の濁悪(じょくあく)の世をば楽(ねが)はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて、五体を地に投げ、哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日(釈迦を日に喩えていう)、われに教えて清浄業処(ごっしょ)を観ぜしめたまへ」と。その時世尊、眉間の光を放ちたまふ。その光金色なり。あまねく十方無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住(とど)まりて化して金(こがね)の台(うてな)となる。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙(じょうみょう)の国土、みななかにおいて現ず。あるいは国土あり、七宝合成(ごうじょう)せり。また国土あり、もつぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮(じざいてんぐ、欲界の最高天、他化自在天の宮殿)のごとし。また国土あり、玻璃鏡(はりきょう、水晶でできた鏡)のごとし。十方の国土、みななかにおいて現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕(ごんけん、おごそかであきらか)にして観つべし。韋提希をして見せしめたまふ。時に韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と。

 この前半部分において韋提希の「厭離穢土、欣求浄土」の思いがあふれています。それは「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」ということばに明らかですが、さてしかし、この思いも、先の愚痴とつなげてみますと、「ああ、もうこんな穢れた世の中はつくづく嫌だ、どこぞに何の憂いもない浄らかな世界がないものか、そこに往って安らかに生きたい」という一種の現実逃避、あるいは見果てぬアナザーワールド願望と見ることもできます。さて、この願いに応えるのが浄土の教えでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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