SSブログ
『観無量寿経』精読(その9) ブログトップ

穢土と浄土 [『観無量寿経』精読(その9)]

(9)穢土と浄土

 浄土の教えのエートスは「厭離穢土、欣求浄土」ということばに現れていますが(このことばはもともと源信の『往生要集』の第1章と第2章の題名です)、このことばには人をあらぬ方向へといざなう危険性があります。仏教には、先の因縁の場合もそうでしたが、いつの間にか、その本来の姿とはおよそ違うものに受け取られていることがたくさん見られます。釈迦の教えがそれだけ微妙で複雑な色合いをしており、うっかり見誤られやすいということです。
 穢土と浄土ということばについて考えておきましょう。このことばからごく自然に浮かぶのは対極的な二つの「世界」です。一方は煩悩にまみれた濁悪の世界、他方は煩悩のない浄らかな世界。この二つの世界は成り立ちの根本が異なりますから、両者は果てしなく隔たっていると言わなければなりません。『無量寿経』ではそれを「ここを去ること十万億刹(さつ、国土)」と言い、『阿弥陀経』では「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」と言って、空間的に超絶していると言い表されます。
 この空間的な超絶性から、おのずと時間的な隔絶が帰結します。すなわち今生では穢土、来生で浄土ということです。これはしかし仏教の本来からしてどんなものでしょう。釈迦は無我を説きましたが、こちらは「我(我執)の世界」、彼方に「無我(涅槃)の世界」というように、二つの世界が隔絶しており、したがって「無我の世界」に往くのは来生であると考えていたのでしょうか。到底そうだとは思えません。そもそも釈迦は死後のことについては「無記(語れない、語らない)」の姿勢を貫いた人です。
 まず言わなければならないのは、穢土とよばれる世界がどこかに客観的に(だれにとっても同じように)あるのではないということです。
 先ほど穢土というのは煩悩にまみれた世界と言いましたが、そのように聞かされますと、この世は確かにそのような世界に違いないと思うのが普通でしょう。自分や周りを見回して、みな多かれ少なかれ煩悩に穢れていると言わざるを得ません。ですからわれらが生きているこの世界は客観的に穢土と言っていいように思えます。さあしかし、ここは穢土というのは、みな多かれ少なかれ貪欲(貪りのこころ)や瞋恚(怒りのこころ)をもっているというぐらいのことを言っているのでしょうか、あらためて考え直す必要があります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『観無量寿経』精読(その9) ブログトップ