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内に虚仮を懐けばなり [『観無量寿経』精読(その10)]

(10)内に虚仮を懐けばなり

 思い出すのが善導のことば「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(『観経疏』「散善義」)です。これは普通に読みますと、「内に虚仮を懐き、外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」となります。心の内に煩悩を隠しておいて、外に向かってそんなものはございませんという顔をしてはいけないということです。ここには、われらが煩悩に穢れているのは確かだが、しかしそれを抑えるべく精進することができるし、またしなければならないという思いがあります。そうした努力をしないでおいて、賢善精進であるかのように装ってはいけないと言っているのです。きわめて穏当で常識的です。
 ところが親鸞はこれを「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みます。一見どう違うのか見分けがつかないかもしれませんが、この読みには容赦がありません。われらはもうどうしようもなく煩悩に穢れているのだから、賢善精進の人であるかのようにみせてはならぬと仮借なしです。先の読みでは、われらに煩悩があるのは間違いないが、しかしそのなすがままであってはならず、正そうと思わなければならない、われらにはその力があると言っています。しかし、この読みでは、われらにそんな力がありもしないのに、あるかのように思うこと自体が虚仮であると言うのです。
 「この世は穢土」というのは、親鸞的には、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということです。
 これは客観的な認識ではなく、ひとつの気づきであるということ、ここに思いを潜めたい。親鸞が「みなもつてそらごとたはごと」と言うのは、釈迦が「みな“わがもの”に執着している」と言うのと畢竟同じことです。われらの生きることそのものが我執(わがものへの囚われ)であるということ、これです。そして「わがものに囚われている」ことをわれらが客観的に認識することはできません。何かを客観的に認識するとは、それを「わがもの」としてゲットするということに他なりませんが、「わがものに囚われている」ことを「わがもの」としてゲットすることほど奇妙奇天烈なことはありません。「わがものに囚われている」ことは、どこかから気づかせてもらうしかないということです。

タグ:親鸞を読む
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