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「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [『観無量寿経』精読(その12)]

(12)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

 さて我執から抜け出すとはどういうことでしょう。我執とは「わたしのいのち」しかないとそれに囚われることですが、その囚われに気づき、それから抜け出すとは「わたしのいのち」ならぬいのちに気づくということです。「わたしのいのち」ならぬいのちを「ほとけのいのち(無我のいのち)」と名づけるとしますと、「ほとけのいのち」に気づくのです。しかし、その一方で依然として「わたしのいのち」に囚われたままですから、「わたしのいのち」にしがみつきながら、同時に「ほとけのいのち」に気づいている。「わたしのいのち」を生きながら、同時に「ほとけのいのち」を生きる、これが我執から抜け出すということです。
 かなり長い道のりを歩んできました。「厭離穢土、欣求浄土」の穢土と浄土について、これは時空的に隔絶した「二つの世界」ではないということを述べてきました。こちらに穢土、あちらに浄土と「二つの世界」があるのではありません。「わたしのいのち」に囚われて生きるとき、そこが穢土であり、「ほとけのいのち」を生きていると気づいたとき、そこが浄土です。そしてわれらは本願に遇うことにより、「わたしのいのち」に囚われていることに気づかされ、同時に「ほとけのいのち」の生きていることに気づかされるのですから、穢土に生きながら同時に浄土に生きているのです。
 韋提希の「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」ということばに戻りましょう。これは「もうこんな世の中はつくづく嫌になった、どこか別の世界で安楽に生きたい」という身勝手な願いに聞こえますが、釈迦はそれを指摘することなく、韋提希の「われに教えて清浄業処を観ぜしめたまへ」の求めに応じて「十方諸仏の浄妙の国土」を眼前に開示します。そして韋提希はそのなかから阿弥陀仏の極楽浄土を選び、「われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と願うことになります。阿弥陀仏とその浄土をつぶさに観るための方法を教えていただきたいということでしょう。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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