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此を去ること遠からず [『観無量寿経』精読(その14)]

(2)此を去ること遠からず

 「なんぢいま、知れりやいなや」という釈迦の問いかけには、韋提希は阿弥陀仏の浄土をここからはるかに隔絶している世界と思っているに違いないという気持ちが滲んでいます。また『無量寿経』や『阿弥陀経』には「ここを去ること十万億刹」とか「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」という表現があったことも思われます。そこであらためて確認しておきたいのは、穢土と浄土は「二つの世界」ではないということです。「わたしのいのち」に囚われて生きるところが穢土であり、それに対して、すでに「ほとけのいのち」を生きていると気づいているところが浄土です。穢土と浄土は生き方の違いにすぎないということです。
 「わたしのいのち」しかないと思い込んでいた人が、それが囚われであることに気づき、「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づいたところに浄土が開示されるのですから、まさしく浄土は「此を去ること遠からず」です。穢土の足下に浄土が開けているのです。そのことと絡んで、釈迦が「われいまなんぢがために広くもろもろの譬(たと)へを説き」と述べていることに注目したいと思います。これから釈迦は阿弥陀仏とその浄土を「観る」ためにはどうすればいいのかを詳しく語ることになりますが、それを「譬へを説き」と言っているのはどういうことでしょう。これはこの経典をどう見るかという根本問題につながってきます。
 第1回の冒頭で『観無量寿経』というタイトルについて考えました。それは「無量寿」すなわち「アミタのいのち(ほとけのいのち)」を「観る」ということで、一方『無量寿経』が「アミタのいのち」を「聞く」経典であるのと好対照をなしていることに着目しました。そして広い意味での浄土経典には「観る」ことに軸をおく流れと、「聞く」ことに軸をおく流れの二つの潮流があり、前者は『般舟三昧経』にはじまり『観無量寿経』へとつながり、後者を代表するのが『無量寿経』であることも触れました。ここで「アミタのいのち」を「観る」ことと「聞く」ことのコントラストについてもう少し考えを進めてみたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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