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いのちの故郷 [『観無量寿経』精読(その20)]

(8)いのちの故郷

 それを忘れますと、西方極楽浄土について誤った見方をもたらすことになります。浄土を実体化し、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」という経文を文字通りに受けとる誤りです。こちらに穢土があり、あちらに浄土があるというお馴染みの図式。そして、その図式からの必然として、あちらの浄土に往くのはこちらの穢土のいのちを終えてからであるという思い込み。こんな話を聞いたことがあります。ある方が本願成就文に「即得往生、住不退転」とあるのが長いあいだ腑に落ちなかったそうです、順序が逆ではないかと。まず不退転に住し、しかる後に往生を得るとなると落ち着くのだが、それを逆に言われるのはどうしてだろうと、ずっと疑問に思っていたというのです。
 その方にとって往生は到着点であり、不退転とはその到着点にかならず至る(途中でズッコケない)ことを意味していると思われます。ですから、まず信心をえて不退転(正定聚と言っても同じです)となり、しかる後(臨終のとき)に往生をえるという順序になるわけです。往生というゴールに至る道程が人生であり、その道程においてもう退転することはないのが不退転ということであるという理解です。しかし往生は決して到着点ではありません。往生とは滅度に至る道程であり、そしてその道程に退転のないことが不退転ということです。信心のときただちに往生の道程がはじまり、それはかならず滅度という到着点に至るのです。
 それを親鸞はこう述べます、「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば(信心を得れば)、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」(『教行信証』「証巻」)と。ここで親鸞が「正定聚に住す」と言っているのが先の本願成就文の「即得往生」であり、「かならず滅度に至る」と言っていることが「住不退転」です。やはりまず「即得往生」があり、しかるゆゑに「住不退転」となるのであって、その逆ではありません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」への道程を歩んでいるのであり、もう「ほとけのいのち」を生きているのにひとしいのです。
 穢土は穢土のそのままで、その足下に浄土が開かれているのです。

タグ:親鸞を読む
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