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水想観 [『観無量寿経』精読(その21)]

(9)水想観

 次は水想観です。

 次に水想をなせ。水の澄清(ちょうしょう)なるを見て、また明了にして分散(ふんさん)の意(こころ)なからしめよ。すでに水を見をはりなば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹(ようてつ、すきとおっている)せるを見て瑠璃(青色の宝石)の想をなせ。この想成じをはりて、瑠璃地の内外(ないげ)に映徹せるを見ん。下に金剛七宝の金(こがね)の幢(はたぼこ)ありて瑠璃地をささぐ(支えている)。その幢、八方にして八楞(りょう、角のこと)を具足せり。一々の方面は百宝の所成なり。一々の宝珠に千の光明あり。一々の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映(よう)ずること億千の日のごとし。つぶさに見るべからず。瑠璃地の上に黄金の縄をもって雑廁間錯(ざっしけんざく、縦横に交わりあう)し、七宝をもつて界(さか)ひて分斉(ぶんざい、分際)分明なり。一々の宝のうちに五百色の光あり。その光、華のごとし。また星月(しょうがつ)に似たり。虚空に懸処して光明の台(うてな)となる。楼閣千万にして百宝合成(ごうじょう)す。台の両辺において、おのおの百億の華幢あり。無量の楽器をもつて荘厳とす。八種の清風(しょうふう)、光明より出でてこの楽器を鼓(う)つに、苦・空・無常・無我の音(こえ)を演説す。これを水想とし、第二の観と名づく。

 日没を想え、につづいて、「水の澄清なる」を想い、「氷の映徹せる」を想えときます。ここで水といい、氷というのは、心の「譬へ」と考えていいのではないでしょうか。そして澄清も映徹も透き通るということですから、われらの心がさあーっと澄み渡り、そこにさまざまな光が「映ずること億千の日のごとし」である様を思い浮かべてみようということでしょう。現実のわれらの心はさまざまな穢れで濁り、その結果として、闇に閉ざされ暗鬱としていますが、その濁りが消えて澄清な水となり、そして明るい光でまばゆいばかりに映徹する様子を思い浮かべてみると、それこそ西方極楽浄土の姿ではないかというのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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