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澄清なる水、映徹せる氷 [『観無量寿経』精読(その22)]

(10)澄清なる水、映徹せる氷

 さてしかし、澄清なる水のような心を想い浮べようとしたとき、そうしようとすればするほど濁りに濁ったわが心が浮び上がるのではないでしょうか。どれほど映徹せる氷のような心を想おうとしても、闇の中に閉ざされたわが心しか想い浮かばないのではないでしょうか。いや、だからこそ、現に澄みきった水や、瑠璃のように光を映す氷を想いうかべることに意味があるのだというのでしょう。つまり澄清なる水や映徹せる氷と、穢れで濁りはてたわが心との際立ったコントラストを浮かび上がらせることこそ、この水想観の意味があるのではないでしょうか。
 澄清なる水や映徹せる氷が浄土を象徴するとしますと、浄土などどこにもないということです。それを思い知れということ。
 心の濁りということで憂いについて考えてみましょう。『無量寿経』下巻の三毒段とよばれる箇所に印象的な一節があります。「尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。…屏営(びょうよう、うろうろと)として愁苦し、念を累(かさ)ね、慮(おもんぱか)りを積みて、心のために走り使はれて、安き時あることなし。田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物(じゅうもつ、家具)、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累(つ)みて、憂念愁怖(うねんしゅうふ)す」と。さらにこうあります、「貧窮・下劣のものは、困乏してつねに無(か)けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ。たまたま一つあればまた一つ少(か)け、これあればこれを少く。斉等(さいとう)にあらんを思ふ」と。
 「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」と言い、「田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」と言います。そして「屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、心のために走り使はれて、安き時あることなし」ということばは、われらの憂い、不安をズバリと言い当てています。われらの心はいつでもどこでもこの憂いと不安で濁りきっています。そこから、この憂いと不安がなかりせばと、透き通った水を想うのです。

タグ:親鸞を読む
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