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苦・空・無常・無我の声 [『観無量寿経』精読(その23)]

(11)苦・空・無常・無我の声

 さてこの水想観のなかに、思いがけないことばが出てきます、「八種の清風、光明より出でてこの楽器を鼓つに、苦・空・無常・無我の音を演説す」と。日想観にせよ、水想観にせよ、音のない世界かと思いきや、そこでは清風が楽器を鼓って、苦・空・無常・無我の声がするというのです。言うまでもなく苦とは「一切皆苦」、空は「色即是空」、無常は「諸行無常」、無我は「諸法無我」であり、これらは仏教の根本テーゼですが、透き通った水の世界を観想するとき、これらの声が響き渡るとはどういうことでしょう。
 すぐ前のところで見ましたように、澄清なる水や映徹せる氷を観想することは、取りも直さず、憂いと不安で濁りきったわが心を思うことです。澄清なる水や映徹せる氷のような心などどこにもないと思い知ることです。そしてそう思ったとき、苦・空・無常・無我の声が聞こえてくるということに違いありません。まず「苦」ですが、憂いや不安こそ生きることの苦のあらわれであり、ことほどさようにこの世を生きることはみな苦であることに気づけということでしょう。そして「空」・「無常」・「無我」は、そうした苦のよってきたるところを指摘しており、苦をもたらす元は「われへの囚われ」すなわち我執であることに気づけということです。
 憂いや不安の元は我執であると気づくこと、これが水想観の目指すところと言えるのではないでしょうか。
 ときに仏教は我執からの解脱(離脱)を説くと言われますが、そこには仏教に対する根本的な錯誤があると言わなければなりません。釈迦は我執こそあらゆる迷妄(そして苦)の元であることに気づきましたが(それが無我の気づきです)、我執は人間が人間である限り逃れることができないことにも気づいています。釈迦は憂いや不安の元は我執であることを明らかにしましたが、だからと言って、憂いや不安を解決するためには我執をなくさなければならないと言うわけではありません。ただ我執こそ憂いや不安の元であることに気づけと言うのです。
 我執の気づきとは「わたしのいのち」の気づきですが、それは取りも直さず「ほとけのいのち」に気づくことです。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると気づくことであり、ここにほんとうの安らぎが与えられるのです。

タグ:親鸞を読む
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