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地想観 [『観無量寿経』精読(その24)]

(12)地想観

 次は地想観です。

 この想成ずる時、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。閉目開目に散失せしめざれ。ただ睡時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを、なづけてほぼ極楽国地を見るとす。もし三昧を得ば、かの国地を見ること了々分明なり。つぶさに説くべからず。これを地想とし、第三の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ仏語を持(たも)ちて、未来世の一切大衆の、苦を脱(まぬか)れんと欲はんもののために、この観地の法を説け。もしこの地を観ずるものは、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて他世にかならず浄国に生ぜん。心に疑なきことを得よ。この観をなすをば、名づけて正観(しょうかん)とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

 これを見ますと、第二観の瑠璃地の想が極楽の国地を見ることに他ならないことが分かります。第三観は第二観と別ではないということです。さてここで注目されるのが、この地想観をなすものは「八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて他世にかならず浄国に生ぜん」とされていることです。これまでは日想観をなせ、水想観をなせと言われてきただけですが、ここにきて地想観をなせば、これまでのすべての罪が除かれ、極楽浄土へ往生できると説かれます。このことばが出てくるのは、水想観のなかで「苦・空・無常・無我」の声が聞こえるとされていたこととつながっているに違いありません。つまり、日想観、水想観、地想観を重ねるなかで、「苦・空・無常・無我」の気づきが得られ、それが滅罪と往生に結果するということです。
 「苦・空・無常・無我」の気づきとは、繰り返しになりますが、われらの心には憂いや不安がつまっているが、それをもたらしている元は「われへの囚われ」すなわち我執であるという気づきです。それに気づいたからといって我執が消えるわけではなく、したがって憂いや不安がなくなるわけではありません。何かに気づくとは、これまで気づいていなかった事実に気づくだけで、事実そのものには何の変化もありません。事実は何も変わりませんが、それに気づくことで事実とのかかわりあい方が変わり、その結果として生き方がまったく変わってくるのです。

タグ:親鸞を読む
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