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われへの囚われ [『観無量寿経』精読(その25)]

(13)われへの囚われ

 「安心」ということばは、普通「あんしん」と読みますが、仏教語としては「あんじん」です。『広辞苑』ではこの二つが別の項目とされ、「あんしん」については「心を安んずること、心配のないこと」とし、「あんじん」は「弥陀に帰依して念仏を専一とし、西方浄土に至ることを信じること」としています。「あんじん」は「信心」と同義だということです。さてこの二つの違いにさらに踏み込みますと、「あんしん」は状況の変化によってもたらされるのに対して、「あんじん」は状況に変化がなくても、ある気づきによって与えられると言えます。病気でいいますと、治療を受けて病状が好転したとき、「やれやれ」と「あんしん」します。それに対して病状に何も変化がなくても、ある気づきによって「あんじん」を得ることができます。
 その気づきというのが「われへの囚われ」の気づきです。不安は「われへの囚われ」からくるという気づきによって、不安をもたらしている状況に何も変化がなくても「あんじん」を得ることができるのです。不安の正体を見届けることで不安が和らぐのです。
 猫の「ノン」に登場願いましょう。「ノン」には(おそらく)「われへの囚われ」がありません(昨今の行きすぎとも見えるペットブームには、ペットたちの「われへの囚われ」のなさがわれらにかけがえのない癒しを与えてくれるという要因があると思われます)。彼女には「われへの囚われ」がありませんから、不安もありません。念のために申し添えますと、例えば差し迫った危機を感じることにかけては、彼女はわれらよりはるかに優れた能力をもっているでしょう。しかし彼女は「明日を思い煩う」ことはありませんから、その意味で不安はありません。一方われらには「われへの囚われ」という人間としての根源的な病があり、それが「明日を思い煩う」という不安を生み出すのです。
 しかし「われへの囚われ」はわれらの根源的な病であると気づくことにより、「ノン」には無縁の「あんじん」が与えられるのです。

タグ:親鸞を読む
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