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観ると聞こえる [『観無量寿経』精読(その29)]

(3)観ると聞こえる

 さて、樹想観では、ただ樹々の神々しい姿、それを覆う真珠の網の美しさ、そして樹の葉や華や果の麗しい姿を想うだけですが、次の池水観、そして楼閣観になりますと、次第に姿・形よりも、音・声の要素が大きくなってきて、楼閣はもう一大音楽堂の様相を呈してきます。「観る」ことよりも「聞こえる」ことに重心が移っていくということです。すでに第二の水想観において、清風が楽器を鼓って「苦・空・無常・無我」の音声を出していましたが、第五の池水観においても樹の間を流れる水が「苦・空・無常・無我・諸波羅蜜」の声を出し、また第六の楼閣観においては楽器がおのずから鳴って「仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを説く」とあります。
 ここであらためて「観る」と「聞こえる」のコントラストについて思いを潜めたい。
 「一切皆苦」・「色即是空」・「諸行無常」・「諸法無我」は釈迦が捉えた世界の真理であるとされます。釈迦は世界のありようを見つめ、それを深く思索し、その結果としてこれらの真理を得たのだと。真理というものは、それを「見る」ものであり、それを「思索する」ものであり、それを「捉える」ものであり、それを「得る」ものであるのは当たり前だと思います。ぼくはそれをgetすると言ってきました。あるいはgraspということばもピッタリではないでしょうか。手にしっかり握りしめるということです。そもそも世の学問はみな真理をgetしgraspしようとする営みであり、学者たちは日々そのことでしのぎを削っています。
 釈迦が29歳の時にすべてを捨てて出家したのも、世界の真理をわが手にgetしgraspしようと思ってのことに違いありません、そうすることで生死の迷い(生老病死の苦しみ)から抜け出ることができるに違いないと。そうして釈迦は二人の師(まずアーラーラ・カーラーマ、そしてウッダカ・ラーマプッタ)につきますが、その教えによっては真理をgetできたとは思えず、次いで釈迦は仲間たちと厳しい苦行の生活に入ります。苦行こそ真理getの唯一の道であると信じてのことでしょう、釈迦は仲間が驚くほどの徹底した苦行を敢行しますが、しかしどうしても真理をgetできない。ついに彼は苦行を打ち切り、ネーランジャラー河で身を浄め、そして樹下で瞑想します。そして35歳の釈迦は真理をさとったと仏伝は教えてくれます。そのとき釈迦は真理をgetしたのでしょうか、わが手に捉え、しっかり握りしめたのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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