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無量寿仏、空中に住立したまふ [『観無量寿経』精読(その31)]

(5)無量寿仏、空中に住立したまふ

 さて次が第七観、華座観ですが、その前に驚くべきことが起こります。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説(げせつ)すべし。なんぢら憶持(おくじ、心にとどめる)して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。この語を説きたまふ時、無量寿仏、空中に住立(じゅうりゅう)したまふ。観世音・大勢至、この二大士(だいし、菩薩のこと)は左右(さう)に侍立(じりゅう)したまふ。光明は熾盛(しじょう)にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色(えんぶだごんじき)も比とすることを得ず。時に韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼(せっそくさらい、ひざまずいて両手で相手の足の甲に触れ、それを自分の頭におしいただく礼拝法)して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

 これまでは極楽浄土を観るために日想から水想、地想、樹想、池水想、楼閣想が説かれてきたのですが、ここからは浄土の主である無量寿仏および観音・勢至の姿を観ることに移っていきます。そこで釈迦はあらためて「あきらかに聴け、あきらかに聴け(諦聴、諦聴)」と注意を促しているのでしょう。で、そのとき突然、まさに何の前触れもなく当の無量寿仏と観音・勢至の二大士が空中にその姿をあらわすのです。これは娑婆の釈迦と浄土の弥陀があい呼応しているということを述べているのでしょうが、さてこれをどう受けとめればいいのか戸惑わざるをえません。
 まずこれは、釈迦から無量寿仏などを観るための方法が示され、それにしたがった結果としてその姿を観ることができたということではありません。それが示される前に、突如として無量寿仏たちが姿をあらわしたのです。そのことを韋提希は「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり」と述べていますが、これは、われらが無量寿仏および二菩薩を見ようとしてもできることではないと言っていると思われます。としますと、韋提希の「未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」という問いに答えて、釈迦がこの後そのための方法を説くことになるのはどういうことかと思います。

タグ:親鸞を読む
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