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かたちもなくまします [『観無量寿経』精読(その32)]

(6)かたちもなくまします

 それよりもっと根本的な戸惑いは、無量寿仏が空中にその姿をあらわすことそれ自体にあります。無量寿仏とは「アミタのいのち」であり、アミタ(無量)とは姿・形がないということではないのでしょうか。親鸞は「自然法爾章」においてこう述べています、「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり」と。
 「かたちもましまさぬ」阿弥陀仏が空中に住立し、それを韋提希が見たというのはどういうことでしょうか。
 親鸞が「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(「教巻」)と述べ、『観無量寿経』には「顕彰隠密の義」(「化身土巻」)があると言いますが、それは、この『観無量寿経』のおもてにあらわれた教え(顕の義)をそのままに受け取ってはいけない、その裏に隠された教え(隠の義)を汲み取らなければならないということです。それが方便ということで、おもてにあらわれた教えは真実の教えに導くための手立てとして説かれているのだと言っているのです。
 韋提希が空中に住立する無量寿仏を見るということは、こちらに見る韋提希がいて、あちらに見られる無量寿仏がいるということになりますが、韋提希がそうである「ミタ(有量)のいのち」と、無量寿仏がそうである「アミタ(無量)のいのち」はそのような関係ではありえません。そもそも「アミタのいのち」の外に「ミタのいのち」があるなら、それはもう「アミタのいのち」ではないということです。「アミタのいのち」が真に「アミタのいのち」であるならば、「ミタのいのち」はすべて「アミタのいのち」のなかに包摂されていなければなりません。
 「ミタのいのち」は「ミタのいのち」のままで「アミタのいのち」であるというこの関係は、「観る」ではなく「聞こえる」というかたちの他には了解するすべはありません。「アミタのいのち」の声がむこうから「聞こえて」はじめて「アミタのいのち」が開示されるのです。

タグ:親鸞を読む
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