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『観無量寿経』精読(その33) ブログトップ

むこうから開示される [『観無量寿経』精読(その33)]

(7)むこうから開示される

 「アミタのいのち」の声がむこうから「聞こえて」はじめて「アミタのいのち」が開示されると述べましたが、「アミタのいのち」の声が聞こえるといいましても、摩訶不思議な声が空中から下りてくるということではありません。それでは無量寿仏が空中に住立するのと何も変わることなく、オカルトになってしまいます。そうではなく、「アミタのいのち」の声はすぐ目の前にいる善知識・よき人のことばを通して、そのなかから聞こえてきます。たとえば法然聖人の「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せのことばを通して、そこから「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」という「アミタのいのち」の声が聞こえてくるのです。
 さてそうしますと「無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立したまふ」ということばの裏に秘められた隠の義は何でしょう。
 それを示唆してくれるのが、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり」という韋提希のことばです。「アミタのいのち」は「アミタのいのち」によって開示されるしかないということ、こちらからどれほど近づこうとしても決してそれを見ることも聞くこともできないということ、これです。先ほど言いましたように、無量寿仏が空中に住立したもうたのは、釈迦がこれから無量寿仏を観る方法を説こうとしたときでした。つまりこちらから観ようとするより前に、むこうからあらわれたということです。
 これはミタからアミタへの通路はなく、ただアミタからミタへの通路だけがあるということをここで暗示していると考えられます。
 そして韋提希が釈迦に自分は幸い仏力により無量寿仏を観ることができたが、「未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と尋ねたのに対して、これから第七観以下が説かれることになるのですが、それもすべて「方便」であることを忘れてはならないということです。表にあらわれている意味とは別に、その裏に隠されている意味があり、それを読み取らなければならないのです。

タグ:親鸞を読む
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