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第十八願 [『観無量寿経』精読(その36)]

(10)第十八願

 学校の先生は生徒に言うものです、「しっかり勉強しなさい、そうすれば間違いなく成績がよくなります」と。それと同じように、法蔵菩薩は衆生に「心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えなさい、そうすれば間違いなくわが浄土へ往生できます」と請け合っていると解釈されるのです。これを聞いたものは「そうか、しっかり信心して念仏すれば往生できるのか、ではこれまでの怠け心を改めて信心と念仏に励もう」と思う。さて、これが浄土のほんとうの教えでしょうか。法蔵菩薩はほんとうにそのように誓っているのでしょうか。
 この解釈では、「至心信楽」と「欲生我国」と「乃至十念」は往生のための条件として衆生に「課されている」ということになりますが、もういちど第十八願をよく見ていただきたい。「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば」とあって、「もし(若)」は「心を至し信楽して云々」の前ではなく、その後につけられています。「もし」が「心を至し信楽して云々」についているのでしたら、もう疑問の余地なく、「至心信楽」等が往生の条件として衆生に課されています。しかし「もし」は「生れざれば」についていて、一切衆生の往生が法蔵の成仏の条件として課されているのです。
 「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん」は、「十方の衆生よ」と法蔵が呼びかけているのではありません。法蔵は自分の心に、あるいは師である世自在王仏に対して、「十方の衆生が、心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えるようにしたい」と誓っているのです、そうしてわが国に迎えたいと。したがって「至心信楽」と「欲生我国」と「乃至十念」は往生のための条件として衆生に「課されている(aufgegeben)」のではありません、「往生浄土」とともに衆生に「与えられている(gegeben)」のです。
 「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり」に戻りますと、これは、華座観だけでなく、浄土がわれらに開示されるのはすべて法蔵比丘の願力によるのであると言っているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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