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『観無量寿経』精読(その37) ブログトップ

像観 [『観無量寿経』精読(その37)]

(11)像観

 次は第八観、像観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相(仏にそなわるすぐれた相)・八十随形好(微細な相)なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海(正遍知は如来十号の一)は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繫念(けねん、念をかける)して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度(ただあかど、タターガタの音写、如来と訳す)・阿羅訶(あらか、アルハットの音写、応供・阿羅漢ともいう、如来十号の一)・三藐三仏陀(さんみゃくさんぶつだ、等正覚、如来十号の一)を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目開目に一つの宝像の閻浮檀金色(えんぶだんごんじき、最高の金の色)のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列(ごうれつ)し、諸天の宝幔その上に弥覆(みふ、おおう)し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華をなして仏の左辺に在(お)くべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華をなして仏の右辺に在け。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光を放つこと、前のごとくして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずる時、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずる時、行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳬(ふ、かも)・雁・鴛鴦(えんおう、おしどり)のみな妙法を説くを聞くべし。出定・入定(禅定に入ると出る)のつねに妙法を聞く。行者の聞きしところのもの、出定の時憶持して捨てず、修多羅(しゅたら、経典)と合せしめよ。もし合せざるをば、名づけて妄想(もうぞう)とす。もし合することあるをば、名づけて粗想(そそう、あらかた)に極楽世界を見るとす。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のなかにおいて念仏三昧を得ん」と。

タグ:親鸞を読む
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