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心に仏を想うとは [『観無量寿経』精読(その40)]

(14)心に仏を想うとは

 このように見てきますと、「心に仏を想ふ」というのは、こちらにある「心」があちらにおわす「仏」を「観る」のではないということがはっきりします。むしろ、ここで仏が多陀阿伽度(ただあかど)すなわちタターガタということばで呼ばれていますように、真如(タター)より来りたまう(アーガタ)のが仏です。仏はむこうからやってきてわれらの心に信心の火を着けるのです。いや、こう言うべきでしょう、われらの心に信心の火が着いたとき、はじめて仏がわが心におわすと。信心のほかに仏ましまさずで、そのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。
 「この心作仏す、この心これ仏なり」と述べた後、「かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし」とあり、以下第八の像観が説かれていきます。次の第九観で無量寿仏そのものを観ることが説かれるのですが、それに先立ってまず仏の「像」を観よというのです。いきなり無量寿仏を観るのは難しいから、その像を観ることから入っていこうということでしょうか。そしてここでは無量寿仏(と観音・勢至の二菩薩)の像だけではなく、浄土の宝地・宝池・宝樹など、その荘厳があらためて展開され、あたかも当麻寺の浄土曼荼羅を見ているかのような気にさせられます。
 ただしかし、「心に仏を想う」とき、それを「観る」というかたちでは、そこにどうしても無理があると感じます。「観る」ときには、どうしても観られる仏と浄土は「あちらに」おかれてしまうからです。観る自分と観られる仏・浄土とが離れてしまうのです。すぐ前のところで言いましたように、仏はこちらから「観る」のではなく、むしろむこうからやってきてわれらの心に信心の火をともすのであり、それは仏の声が「聞こえる」というかたちにならざるをえません。そのことはここでも滲み出ていて、「行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳬(ふ)・雁・鴛鴦(えんおう)のみな妙法を説くを聞くべし」とあります。浄土曼荼羅を見るうちに、そのなかから声が聞こえてくるのです。その声はもちろん本願の声であり、本願の声が聞こえてきてほんとうに「心に仏を想う」ことができたのだと言わなければなりません。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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