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真身観 [『観無量寿経』精読(その41)]

            第4回 摂取して捨てたまはず

(1)真身観

 いよいよ第九観、真身観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿仏の身相と光明とを観ずべし。阿難まさに知るべし、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色(えんぶだんごんじき)のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬(ゆじゅん)なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転(えんでん)して五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明(しょうびゃくぶんみょう、青い瞳と白目の境がくっきりしている)なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出(えんすい)す。須弥山のごとし。かの仏の円光(頭から出る光明)は、百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈(絶対平等の慈悲)をもつてもろもろの衆生を摂したまふ。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前(みまえ)に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繫けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。
 無量寿仏を観ぜんものは、一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記したまふ。これをあまねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

タグ:親鸞を読む
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