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念仏の衆生を摂取して捨てたまはず [『観無量寿経』精読(その43)]

(3)念仏の衆生を摂取して捨てたまはず

 善導は『往生礼讃』において「しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発(おこ)して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」と述べています。すなわち弥陀仏は深重の誓願を発しましたが、それがわれらのもとに届くのに(仏の願いはそれが衆生に届いてはじめて願いとしてのはたらきをします)、光明と名号という二つの手立てをとるということです。親鸞はこれを受けて、「まことに知んぬ、徳号(名号です)の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん」(「行巻」)と言います。本願がわれらのもとに届き、われらが浄土に往生するのに、名号という因と光明という縁が設えられているということです。
 ところで「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という文言のなかの「念仏の衆生を」という一句が気にならないでしょうか。弥陀の光明は「あまねく十方世界を照らす」のであれば、「一切の衆生をもれなく」摂取してよさそうに思われますが、「念仏の衆生を」摂取するというのはどういうことだろうと。この念仏は、上に言いましたように、名号を称えるということではなく、仏を憶念するということですが、それにしても、「念仏の衆生」だけ摂取するということであれば、「あまねく十方世界を照らす」ことにならないのではないかという不審がおこります。何か排他的な匂いがするぞと。
 そこで、先の善導のことばにも、また親鸞のことばにも、それにつづく大事な一節があることに留意したいと思います。善導の「光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」の後には「ただ信心をもつて求念せしむれば」とつづき、親鸞の「所生の縁そむきなん」の後には「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、心の識別作用)にあらずは光明土に到ることなし」とあります。どちらも、光明と名号がそろっていても、そこにわれらの信心がなければ光明も名号もはたらくことができず、浄土に往生することができないという趣旨です。

タグ:親鸞を読む
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