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信心とは光明・名号の気づき [『観無量寿経』精読(その44)]

(4)信心とは光明・名号の気づき

 としますと、経の「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」というのは、「信心の衆生を摂取して捨てたまはず」という意味だということになります。弥陀の光明は「あまねく十方世界を照らす」が、文字通り一切衆生を摂取するのではなく、信心の衆生を摂取するということです。これで先ほどよりは違和感が薄らいだと思いますが、でもまだこだわりが残るかもしれません。そりゃまあ信心がないことには何ともならないのかもしれないが、しかしどうしても信心をもてない人もいると思う。そのような人は「縁なき衆生」として置き去りになるのだろうか、と。
 ここで指摘しなければならないのは、信心とは弥陀の光明・名号に、われらがプラスする何ものかではないということです。普通、何かを信じるというのは、それに太鼓判を押すということ、これは間違いありませんと保証することです。しかし信心というのは、弥陀の光明・名号に太鼓判を押すことではありません。そのようにわれらがプラスすることではなく、むしろわれらから何かがマイナスされることです。これまで心が濁っていて見えなかったのが、その濁りがさあーと澄んで(信心と訳されるサンスクリット「プラサーダ」は「澄む」ということです)、光明と名号がくっきりあらわれる、これが信心です。
 信心とは弥陀の光明・名号に「気づく」ことに他なりません。
 すぐ前のところで、弥陀の本願はそれが衆生に届いてはじめて本願としてのはたらきをすると言いました。そして本願を衆生の手元に届ける手立てが光明と名号であるとも言いました。さてここで留意しなければならないのは、この光明と名号は、普通の光や普通の声のように、誰にも同じように存在するものではないということです。光明と名号は、それに気づいた人にだけ存在し、気づかない人にはどこにもありません。ここまできまして「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」の意味が明らかになります。光明は一切の衆生を照らしているのです。でも、それに気づきませんと、光明などどこにもなく、気づいた人にはじめて存在し、「摂取して捨てず」というはたらきをすることができるのです。

タグ:親鸞を読む
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