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無縁の大慈悲 [『観無量寿経』精読(その45)]

(5)無縁の大慈悲

 仏を観るとはいうものの、それは実のところ、仏の光明に照らされることであり、その光明に摂取されることであることを見てきました。さてさらに、「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ」と説かれます。仏身を観ることは仏心を観ることでもあり、仏心を観るとは、実のところ、仏の大慈悲に摂取されることであるというのです。そして仏の大慈悲とは「無縁の慈」であると言われます。われらは「無縁の慈」に摂取されるということ、これについて思いを潜めたい。
 曇鸞は『論註』において、「慈悲に三縁あり」と論じています、「一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり」と。そしてさらにつづけて「大悲はすなはちこれ出世(世間を超えたさとりの世界)の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり」と述べ、浄土は仏の無縁の大悲より生じたと明かしてくれます。曇鸞は『浄土論』の「正道の大慈悲、出世の善根より生ず」という文を注釈するなかでこう述べているのですが、そのとき彼の頭にはこの「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ」という『観経』の一節があったに違いありません。
 さてこの無縁の慈悲とはどういうことでしょう。曇鸞は無縁の大悲に対して、衆生縁は小悲で、法縁は中悲と言うだけで、それ以上の説明はしてくれませんが、前後から判断しますと、まず衆生縁とはわれらのごく普通の慈悲心のことでしょう。われらの親切心は何らかの人間的な縁(つながり)のある範囲にとどまります。一方、法縁は、これといった縁は何もないが、でもそのまま座視しているのは仏法に反すると思う、そのような慈悲心を指すのでしょう。ひどい災害に遭われた人を見て、何とかしてあげたいと思うようなことです。それに対して無縁の大悲は、文字通り何の縁もないが、一切の衆生に分け隔てなくかけられる仏の絶対平等の大慈悲心です。

タグ:親鸞を読む
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