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観音観 [『観無量寿経』精読(その47)]

(7)観音観

 次に第十観、観音観です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已(おわ)りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩、身の長(たけ)八十万億那由他由旬なり。身は紫金色なり。頂に肉髻(にくけい)あり。項(うなじ)に円光あり。面(おもて)おのおの百千由旬なり。その円光のなかに五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に五百の化菩薩と無量の諸天ありて、もつて侍者たり。挙身の光(全身から出ている光)のなかに五道の衆生の一切の色相、みななかにおいて現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝(びりょうかまにほう)あり、もつて天冠とす。その天冠のなかに、ひとりの立化仏(阿弥陀仏の化身)まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は、閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相に七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出(るすい)す。一々の光明に、無量無数百千の化仏まします。一々の化仏は、無数の化菩薩をもつて侍者とす。変現自在にして十方世界に満てり。たとへば紅蓮華色(ぐれんげしき)のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞(ようらく、身の飾り)とす。その瓔珞のなかに、あまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華色をなす。手の十指の端に八万四千の画(え)あり。なほ印文(判で押した文様)のごとし。一々の画に八万四千色あり。一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引(しょういん)したまふ。足を挙げたまふ時、足の下に千輻輪(せんぷくりん、輪に千の放射状の輻がある模様)の相あり、自然に化して五百億の光明の台(うてな)となる。足を下ろしたまふ時、金剛摩尼(堅固な摩尼宝珠)の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし。その余の身相・衆好、具足せること仏のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂(肉髻の頂点は誰も見ることができないことから)の相、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実色身を観ずる想とし、第十の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まさにこの観をなすべし。この観をなすものはもろもろの禍に遇はず。業障を浄除し、無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩は、ただその名を聞くだに無量の福を獲。いかにいはんやあきらかに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まづ頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相、また次第にこれを観じて、また明了なること、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす。

タグ:親鸞を読む
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