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不都合な事実 [『観無量寿経』精読(その49)]

(9)不都合な事実

 思い出されるのが『創世記』のなかのアダムとイブの話です。アダムとイブはエデンの園で蛇に誘われて禁断の木の実を取って食べてしまい、その結果、自分たちが裸であることに気づいてイチジクの葉をつづり合わせて腰に巻いたのでした。そして、あるとき主なる神がエデンの園を歩まれる音を聞き、二人は思わず木の間に身を隠すのです。彼らは自分たちがしてはならないことをしていると無意識のうちに感じ、それが光のなかにさらされることを避けたのです。光明に照らされることに不都合があると無意識のうちに感じて、それから逃げたのです。
 光明に照らされるということは、われらの偽らざる姿が赤裸々に明らかになるということです。これを無意識のうちに避けようとして、光明に照らされていることに気づかないようブロックする。不都合な事実が明らかにならないよう、その気づきをしっかりブロックするということです。不都合な事実とは何かといいますと、「われへの囚われ」に他なりません。われらはこれまた無意識のうちに「われ」を世界の第一起点として前提し、それに囚われて生きているのですが、それだけではなく、この事実は何か不都合なことであると無意識に感じていると思われます。だからこそ弥陀の光明を懼れ、それに照らされることから逃げ回ろうとするのです。光明そのものから逃げることはできませんから、光明に気づかないよう心をブロックする。かくして光明は存在しないことになります。
 親鸞の講座で、信心とは弥陀の光明と名号に気づくことです、というようにお話しますと、決まってこう言う人が出てきます、「どうすれば光明と名号に気づけるのでしょうか」と。しかし、気づきたいと思っているのに気づけないのではありません、無意識のうちに気づきたくないと思って逃げ回っているから気づかないのです。気づきたいと思っているのでしたら、「どうすれば気づけるか」という問いは有効です。しかし、気づきたくないと思っているのですから、「どうすれば気づけるか」どころか、気づかないようしっかりブロックしているのです。
 しかし弥陀の光明は「ものの逃ぐるを追はへと」ります。気づきはむこうから有無を言わせずやってくるのです。

タグ:親鸞を読む
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