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勢至観 [『観無量寿経』精読(その50)]

(10)勢至観

 次は第十一の勢至観です。

 次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面(おもて)は、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。挙身(こしん)の光明は十方国を照らし、紫金色をなす。有縁の衆生は、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔(もうく)の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号(なづ)けて無辺光と名づく。智慧の光をもつてのあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たまへり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく。この菩薩の天冠(てんがん)に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長(こうじょう、広大無辺)の相、みななかにおいて現ず。頂上の肉髻(にくけい)は鉢頭摩華(はずまけ、紅蓮華のこと)のごとし。肉髻の上において一つの宝瓶(ほうびょう)あり。もろもろの光明を盛(い)れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。この菩薩行きたまふ時、十方世界は一切震動す。地の動く処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳、高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩、坐したまふ時、七宝の国土一時に動揺し、下方の金光仏の刹(せつ、国土)より乃至上方の光明王仏の刹まで、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集(うんじゅう)したまふ。空中に側塞(しきそく、満ち満ちている)して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度したまふ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見たてまつる、これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎(母体内で胎児をつつむ「えな」のこと)に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるをば、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。

タグ:親鸞を読む
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