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智慧の光 [『観無量寿経』精読(その51)]

(11)智慧の光

 真身観、観音観につづいて勢至観が説かれますが、無量寿仏にせよ観世音菩薩にせよ大勢至菩薩にせよ、その本質は光明であることが分かります。ここではそれが「智慧の光をもつてのあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たまへり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく」と言われています。「智慧の光」とあることから、光明とは智慧を指していることが明らかですが、この智慧はわれらがこちらからゲットするのではなく、逆に、われらはむこうからやってくるこの智慧に有無を言わさずゲットされるのです。この智慧は「ものの逃ぐるを追はへとる」のです。
 しかし、智慧の光というものは有り難いものではないでしょうか。普通、光に遇うというのは救われるという意味でつかわれます。光に遇うということは、無明の闇のなかを彷徨うものが、その迷いから抜け出したということです。ここでもこの光は「三塗を離れしむるに無上力」を発揮すると言われていますが、そんな有り難いものからどうして逃げようとするのでしょう。すでに述べましたように、この智慧はわれらにとって不都合な事実を明るみに出してしまうからです。できれば知りたくない、隠しておきたいと思っていることを暴露してしまうのです。そのことについてもう一歩踏み込んで考えたいと思います。手がかりとなるのがフロイトの「リビドー」です。
 くどくど説明する必要はないと思いますが、フロイトがリビドーと言うのは、われらをつき動かしている性的な衝動、エネルギーのことで、これをわれらは知りたくないもの、隠しておきたいものとして、無意識の世界に抑圧しているというのです。そして、この抑圧が昂じると、さまざまな精神疾患として表面化してくるというのがフロイトの基本テーゼです。で、彼の処方箋は、この不都合な事実として無意識界に抑圧しているリビドーを意識化させようというものです。精神病の患者は、何とかしてリビドーという不都合な事実に気づくまいと必死に逃げ回っているのですが(もちろんそうと意識することなく)、それが疾患をもたらしているのですから、その事実を外から有無を言わせず突き付けてあげることによって、逃げ回る苦しさから脱出させてあげようというのです。

タグ:親鸞を読む
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