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定善と散善 [『観無量寿経』精読(その57)]

(2)定善(じょうぜん)と散善

 さてしかしこの大きな落差をどう理解すればいいでしょう。これまでの叙述から、第十三観までで浄土と仏・菩薩を「観る」方法については一段落したのは明らかです。そこで善導は第十三観までを「定善」とし、「定はすなはち慮(おもんぱか)りを息(や)めてもつて心を凝らす」(『観経疏』「玄義分」)と解釈します。心を統一して静かに浄土と仏・菩薩を「観る」行であるということです。それに対してこれから以後(第十四観から第十六観まで)を「散善」とし、「散はすなはち悪を廃してもつて善を修す」(同)と言います。散乱した心のままでさまざまな善をなすことを往生の行とするのです。このように善導は往生の行に定善と散善があり、前者は釈迦が韋提希の要請を受けて説き、後者は釈迦がみずからの意思で語った自説であると解釈しました。
 この定善と散善という区別は以後定説として受け継がれ、偏依善導の法然はもちろん、親鸞もこの見方に立って『観経』を読んでいます。
 さてこの上品上生段でもっとも注目すべきは「かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便(すなはち)往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深信、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず」という一節です。善導はこの部分に決定的な重要性を認め、『観経疏』「散善義」において、この三心のそれぞれについてきわめて詳細な注釈を施しています(三心釈と言います)。そしてその注釈の中に注目すべき見解が多く見られ、法然はその箇所を『選択集』に引用していますし、親鸞もまた『教行信証』「信巻」に長く引用していますが、これは善導三心釈の卓越性を示すものと言うべきでしょう。
 まずは至誠心についてですが、ここで注目したいのは、善導の注釈を親鸞がどのように読んだかという点で、そこに親鸞的感性がくっきりあらわれていて面白いと思います。善導はこう言います、「(至誠心の)至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行(教えを領解し実践すること)、かならず須らく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と。至誠心とは真実心であり、何ごとも真実心でなさねばならないというのです。

タグ:親鸞を読む
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