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真実心 [『観無量寿経』精読(その58)]

(3)真実心

 善導が至誠心について「至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず須らく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と注釈した文を親鸞は思いがけない読み方をします。まず「かならず須らく真実心のうちになすべき」を「かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐん」と読み、次いで「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」を「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みます。それぞれの原文をあげますと、前者は「必須真実心中作」で、後者は「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」です。
 われら現代日本人には及びもつかないほど漢文に精通しているはずの親鸞ですから、自分の読み方に無理があることは百も承知だと思います。しかしここはそう読んではじめて善導が真に言わんとしていることが伝わると確信し、あえてそう読んでいるに違いありません。とりわけ「必須真実心中作」の必須は「必ず須らく~すべし」と読むべきであり、須を「もちゐる」と読むのは不可能ではないとしても、かなりの無理筋と言わなければなりません。しかし「須らく~すべし」と読めば、われらには虚仮の心だけでなく、真実の心があるのだから、何ごとも真実心でしなければならないということになります。
 で、親鸞の感性はこれを「かならず須らく真実心のうちになすべき」と読むことを頑として拒みます。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)であり、われらに真実心などというものは薬にしたくてもないというのが親鸞的感性です。われらに真実心はないということは、それを裏返せば、真実心は如来のものであるということです。これは次の深心のところで主題となることですが、われらに真実心がないことをわれら自身が知ることはできず、それは真実心をもつ如来から気づかせてもらうしかありません。
 そこからこれは「かならず(如来が)真実心のうちになしたまへるを須ゐん」と読まざるをえないのです。真実心はわれらが設えることはできず、如来の設えられた真実心をいただくしかないということです。

タグ:親鸞を読む
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