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信心の二つの面 [『観無量寿経』精読(その60)]

(5)信心の二つの面

 さてここでじっくり考えたいのは信心に二つの面があるということです。
 浄土教の信心とは何ですかと問われたら、「阿弥陀仏の本願は一切衆生を漏れなく救ってくださる(往生させてくださる)と信じることです」と答えるのが普通で、これは先の善導のことばの後半、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」に当たります。ところが善導は、それは信心の一面にすぎず、もうひとつの面を忘れていると言います。それが前半の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」であり、これがあってはじめて、後半の「かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」があるのだと言うのです。
 信には「己についての信」と「仏(本願)についての信」の二面があるということで、前者を「機の深信」、後者を「法の深信」とよびます。
 これは何を意味するでしょう。ちょっと目先を変えて道元の有名なことばを参照したいと思います。「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(『正法眼蔵』「現成公案」)。仏とは何かを知ることは、自己とは何ものかを知ることに他ならないということで、もうひとつ言えば、自己を知ることを通してしか仏を知ることはできないということです。「自己を知る」と言っても、禅の教えと浄土の教えではかなりニュアンスが異なるでしょうが、いずれにしても自己とは何かをよそにして、仏とは何かを追究しようとしても無効であるということです。それをやろうとしますと形而上学になってしまい、教条主義(ドグマティズム)になってしまいます。
 「機の深信」があってはじめて「法の深信」があるということは、自己を通じてしか仏(本願)に遇うことはできないということです。
 さて、浄土教において「自己とは何ものか」に対する答えは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」であり、あるいは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ですが、問題はわれらはこれをどのようにして知ることができるかということです。

タグ:親鸞を読む
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