SSブログ
『観無量寿経』精読(その61) ブログトップ

パラドクス [『観無量寿経』精読(その61)]

(6)パラドクス

 あるとき講座で、『歎異抄』のことばとして「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」を紹介し、ここに親鸞浄土教の核心があるという話をしておりましたら、ある方が突然手を挙げられ、こう言われました。「親鸞がすべてはそらごとたわごとだと言ったとしますと、親鸞がそう言っていることもそらごとたわごとということにはなりませんか」と。まことにおっしゃる通りで、ここには「嘘つきのパラドクス」として知られている逆説があります。誰かが「ぼくは嘘つきです」と言ったとしますと、彼がそう言っていることも嘘であることになり、何が何やら分からなくなります。
 では「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」という言明はナンセンスということになるのでしょうか。とんでもありません、ここに親鸞浄土教の、ひいては仏教の核心があります。聖徳太子のことばとされる「世間虚仮、唯仏是真」は仏教の本質をついています。とするとどういうことか。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」を煩悩具足の凡夫がみずから知ることはできないということです。それをみずから知ったと言った途端に、先ほどのパラドクスが炸裂します。ですから、親鸞はこのことをみずからゲットしたのではありません、このことに親鸞がゲットされたのです。
 親鸞にどこかから「煩悩具足の汝は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」という声が聞こえてきて、親鸞はその声に「まことにその通りです」と頷き、うな垂れているのです。「自分は何ものか」は自分では知ることができず、外から否応なく気づかされるということ、ここに他力の原義があります。哲学者の鷲田清一氏がどこかで言っていました、自分がどんな顔をしているかですら、自分で知ることはできないと。鏡に映して自分の顔を見る時、必ず自分の気に入る角度から見ていて、どこかで脚色しているというのです。嘘偽りのない自分の顔は、誰かが知らないうちに撮った写真に示されており、「えっ、これがオレか」とガッカリさせられるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『観無量寿経』精読(その61) ブログトップ