彼は気づいたはずです、これまで自分の力で我執を退治しようとしてきたこと自体が我執ではないかと。
ぼくらは「生きんかな」としてさまざまなものを「わがもの」にしているのですが、そのときただ「わがもの」とするだけでなく、「わがもの」と「ひとのもの」を比較し、少しでも「ひとのもの」より多くを「わがもの」にしようと躍起になる。これがぼくらを生き苦しくさせ、居心地悪くさせている元凶です。
そう考えた釈迦は厳しい苦行によって我執から脱却しようとしたのですが、そのこと自体が我執ではないのか。「ひとのもの」より少しでも多くを「わがもの」にしようとするのと全く同じように、人より少しでも早く解脱(我執からの脱却)を「わがもの」にしようとしているのではないのか。
自力で何かを得ようとしていることにおいて、何も変わらないではないのか。
さて、我執から脱却しようとすること自体が我執であるとしますと、もう我執から抜け出ることはできないということになります。
もはや救いはない。
ぼくらは「生きんかな」としてさまざまなものを「わがもの」にしているのですが、そのときただ「わがもの」とするだけでなく、「わがもの」と「ひとのもの」を比較し、少しでも「ひとのもの」より多くを「わがもの」にしようと躍起になる。これがぼくらを生き苦しくさせ、居心地悪くさせている元凶です。
そう考えた釈迦は厳しい苦行によって我執から脱却しようとしたのですが、そのこと自体が我執ではないのか。「ひとのもの」より少しでも多くを「わがもの」にしようとするのと全く同じように、人より少しでも早く解脱(我執からの脱却)を「わがもの」にしようとしているのではないのか。
自力で何かを得ようとしていることにおいて、何も変わらないではないのか。
さて、我執から脱却しようとすること自体が我執であるとしますと、もう我執から抜け出ることはできないということになります。
もはや救いはない。