(7)ふとした縁で気づきが

 アメリカで銃規制が進まず、しばしば銃乱射事件が起こって問題となっています。ライフル協会という強力な政治団体が銃規制に反対しているそうですが、この問題の本質も根本的には、殺人というのは特殊な人だけがするものかどうかということにあります。
 もし人間の中にごく一部、特殊な殺人者というのがいるのでしたら、銃のことをとやかく言わなくてもいいのかもしれません。でも、誰でも一度や二度は「殺してやりたい」という衝動に駆られることはあるのではないでしょうか。問題はその衝動が実際に行動に移るかどうかです。そして、そんな時にすぐ傍に銃があるかどうかは大問題です。
 ふとした縁で、誰でもいじめや殺人をしてしまうものだよ、と親鸞は言うのです。
 さてぼくという<場>で生きる意味が感じられるが、きみという<場>では感じられない、というのも縁ではないでしょうか。ぼくという<場>で生きる意味が感じられるのは、そういう縁があるからで、きみという<場>で生きる意味が感じられないのは、そういう縁がないからです。
 ここでもう一度、ひとりの生徒の「先生ごめん、あれはぼくがやった」(「生きる意味」その57、58)を取り上げたいと思います。そのひと言によって心がつながった訳ではなく、それがきっかけとなって「もうすでに心がつながっていることに気づいた」のだと言いました。このひと言が原因で、心がつながるという結果が生まれたのではありません。このひと言が縁となって「もうすでに心がつながっている」という気づきが起こったのです。