(2)見えぬけれども
源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」という不思議な文を分解してみましょう。
第一句:「わたしは弥陀の光明に摂取されている」。
第二句:「しかしわたしは煩悩に遮られて光明を見ることができない」。
第三句:「しかし弥陀の光明は絶えずわたしを照らしていてくださる」。
見られるように、この文は二重否定の構造をしていることが分かります。「わたしは光に照らされている」but「光を見ることはできない」but「光に照らされている」と、二度のbutで元に戻っているのですが、素朴に疑問に思うのは、光を見ることができないのに、どうして光に照らされていると言えるのかということです。見えないのにあると分かるのはどうしてか。
前にも引き合いに出したことがありますが、金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」いうのがあります。
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
みすずは「見えぬけれどもある」と詠います。
源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」という不思議な文を分解してみましょう。
第一句:「わたしは弥陀の光明に摂取されている」。
第二句:「しかしわたしは煩悩に遮られて光明を見ることができない」。
第三句:「しかし弥陀の光明は絶えずわたしを照らしていてくださる」。
見られるように、この文は二重否定の構造をしていることが分かります。「わたしは光に照らされている」but「光を見ることはできない」but「光に照らされている」と、二度のbutで元に戻っているのですが、素朴に疑問に思うのは、光を見ることができないのに、どうして光に照らされていると言えるのかということです。見えないのにあると分かるのはどうしてか。
前にも引き合いに出したことがありますが、金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」いうのがあります。
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
みすずは「見えぬけれどもある」と詠います。