第9回 死なんずるやらん(第9章、第10章)

(1)第9章の前段

 2段に分けて読みます。まず前段から。

 念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり、地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

 (現代語訳) 「念仏を申しましても、心躍るばかりに嬉しい気持ちが起こりませんし、また急いで浄土へ往きたいという心も起こりませんのは、どうしたことでしょう」と申しましたところ、「私(親鸞)もその疑問を感じていましたが、そうですか、あなた(唯円房)も同じことを思っていたのですね。よくよく考えてみますと、天に踊り、地に踊るほど嬉しいはずなのに、嬉しく思わないのは、いよいよ往生は確かだと思うべきです。嬉しく思う心を抑えて嬉しく思わせないのは煩悩の所為です。仏が前もって我らは煩悩にまみれた凡夫だと教えて下さっているのですから、他力の悲願はそのような我らのためだと知ることができて、いよいよ頼もしく思えるのです。