第14回 曇鸞-仙経を梵焼して
(1)偈文14
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし) 本師曇鸞は、梁の天子、
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい) 常に鸞の処に向いて、菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう) 三蔵流支、浄教を授けしかば、
梵焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう) 仙経を梵焼して、楽邦に帰したまいき。
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ) 天親菩薩の論、註解して、
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん) 報土の因果、誓願に顕わす。
(現代語訳) 曇鸞という人がどれほど人々の崇敬を受けていたかは、南朝・梁の皇帝である武帝がいつも曇鸞のいる北に向かって菩薩の礼をとられていたことからも分かります。インドの菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)が曇鸞に『観無量寿経』を授けてからは、せっかく手に入れた不老長寿の道教経典を焼いて、浄土の教えに帰されました。そして天親菩薩の『浄土論』を注釈して、浄土の因も果もみな弥陀の本願によることを顕かにしてくださったのです。
インドの龍樹と天親という二大論家の後、中国の曇鸞(476-542)にうつります。
曇鸞が龍樹の影響を色濃く受けていることは、その『浄土論註』のあちこちから感じられます。「無生の生」とか「煩悩を断ぜずして涅槃分をう」といったことばにそれが如実にあらわれていますが、そんな曇鸞があるとき病をえて、長生きしたいと切実に願い、あろうことか道教の教えを求めて、はるばる江南の地まで赴いたというエピソードはおもしろい。高度な論理の道でさとりをめざしていたはずの曇鸞も、不老長生の現世利益のためには外道をもいとわないという点に興味をそそられるのです。日本でいえば、釈尊の弟子を自認している者が無病息災を願い神社に参拝・祈祷するようなものでしょう。ところがその曇鸞が北朝の都・洛陽に帰ってきて、たまたま菩提流支に会い、『観無量寿経』こそほんとうの長生の教えを説いた経典であると教えられて、折角手に入れた道教の経典(仙経)を焼き捨て、浄土の教えに帰することになったというのもまたあまりにドラマチックなエピソードです。
(1)偈文14
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし) 本師曇鸞は、梁の天子、
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい) 常に鸞の処に向いて、菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう) 三蔵流支、浄教を授けしかば、
梵焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう) 仙経を梵焼して、楽邦に帰したまいき。
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ) 天親菩薩の論、註解して、
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん) 報土の因果、誓願に顕わす。
(現代語訳) 曇鸞という人がどれほど人々の崇敬を受けていたかは、南朝・梁の皇帝である武帝がいつも曇鸞のいる北に向かって菩薩の礼をとられていたことからも分かります。インドの菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)が曇鸞に『観無量寿経』を授けてからは、せっかく手に入れた不老長寿の道教経典を焼いて、浄土の教えに帰されました。そして天親菩薩の『浄土論』を注釈して、浄土の因も果もみな弥陀の本願によることを顕かにしてくださったのです。
インドの龍樹と天親という二大論家の後、中国の曇鸞(476-542)にうつります。
曇鸞が龍樹の影響を色濃く受けていることは、その『浄土論註』のあちこちから感じられます。「無生の生」とか「煩悩を断ぜずして涅槃分をう」といったことばにそれが如実にあらわれていますが、そんな曇鸞があるとき病をえて、長生きしたいと切実に願い、あろうことか道教の教えを求めて、はるばる江南の地まで赴いたというエピソードはおもしろい。高度な論理の道でさとりをめざしていたはずの曇鸞も、不老長生の現世利益のためには外道をもいとわないという点に興味をそそられるのです。日本でいえば、釈尊の弟子を自認している者が無病息災を願い神社に参拝・祈祷するようなものでしょう。ところがその曇鸞が北朝の都・洛陽に帰ってきて、たまたま菩提流支に会い、『観無量寿経』こそほんとうの長生の教えを説いた経典であると教えられて、折角手に入れた道教の経典(仙経)を焼き捨て、浄土の教えに帰することになったというのもまたあまりにドラマチックなエピソードです。