第5回 高僧和讃(1)


(1)南天竺に比丘あらん(これより龍樹讃)



南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし 有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ(第2首)


南インドに僧ありて、龍樹菩薩と名のりいで、有見・無見を論破すと、釈迦はもとより予言せり



親鸞は龍樹を讃えるにあたり、信心の易行を説いたことと同時に、有無の邪見をうちやぶったことを取り上げます。しかし龍樹が信心の易行を説いたことと、有無の邪見をうちやぶったこととの接点は見いだしにくく、浄土の教えにおいて龍樹に言及される場合、空の思想はスルーされてしまうのが普通ですが、ここで親鸞は空の思想家(中観派の祖)としての龍樹に焦点をあてて詠っています。空とは、あらゆるものは他のものとの関係(つながり)においてあり、それ自体として存在するものはないという思想で、釈迦の縁起を無自性すなわち空として捉え直したものですが、さてそれは本願他力の思想とどのように関係しているのでしょう。


彼の印象的なことばに「去る人は去らない」(『中論』)とありますが、それは「(去る)人」と「去ること」を切り離すことはできず、どこかに「(去る)人」がそれ自体として(自性として)存在するのではないということです。われらはともすると、まず「(去る)人」がいて、しかる後にその人が「去る」という行動をすると思うものですが、しかし実は、ただ「去る人がいる」という事がらがあるだけです(去る人はもう去りつつあるのですから、その上にさらに去ることはありません)。そして「去る人がいる」こともまた他の無数の事がらと縦横無尽につながりあうことで成り立っています。としますと、まず「わたし」がいることがすべての始まりではなく、「わたし」もまたあらゆる事がらの縦横無尽のつながりのなかで生かされているということです。


「わたし」がいることがあらゆることの第一起点であるとするのが自力の思想で、それを哲学的に宣言したのがデカルトの「わたしは思う、ゆえにわたしはある」です。それに対して「わたし」もまた他のあらゆる事がらとのつながりのなかで生かされているとするのが他力の思想で、それを哲学的に宣言したのが龍樹の「去る人は去らない」です。かくして空と本願他力は別ものではないことが明らかになりました。